できる限り大きいものに挑戦したい。
今一番描いてみたいのはジャンボジェット機の機体!
15歳で単身渡米。アリゾナ、フロリダ、ユタ、L.A.などを渡り歩き、独学でグラフィティを習得。帰国後は有名企業(JT、JRA、松下電器、キューピー等)の平面広告からTV-CM、ブランドコラボレーション(CASIO G-SHOCK)、 スタジオセットなど、多方面に渡り活躍中の日本を代表するグラフィティライター TOMI-E。また、ラップ、DJ、ブレイクダンスとならび「ヒップホップの四大要素」のひとつに数えられるグラフィティだけに、彼の活動の中にはライブペインティングなども含まる。たくさんの観客が見守る中、ヒップホップミュージックのリズム合わせ、両手に持ったスプレー缶を自由自在に操り、大きな壁に短時間で個性溢れる図案を絶妙なバランスで完成させていく姿はまさに職人芸と呼べる。 プロのグラフィティライターという立場で現代の日本におけるグラフィティ文化を全国に広め、先頭に立って業界を牽引しているのがTOMI-Eであり。TOMI-Eの様々な挑戦こそが、今後グラフィティライターを目指す者達にとっての指針となるはずである。2006年にはTOMI-E自身をモデルとして取り上げられた映画「TAKI183」が公開される。そして現在は、音楽・ファッション・広告業界にとどまらず、日本のグラフィティライターとしては初のコンテンポラリーアートへの進出に意欲的な活動を行っている。そこで今回のインタビューでは、彼が独自のスタイルを確率するまでの道のりや超行動派である彼の思考を深く掘り下げてみた。
──どういった目的で渡米されたのですか。またどのくらいの期間渡米されていたのですか。
「最初のアメリカ体験は15歳の頃でした。アルバイトとして入った古着屋がよくアメリカに買い付けに行っていたんですよ。チャンスがあって、それでサンタモニカの大きなフリーマーケットに行き、その会場ではあちこちでストリートパフォーマンスをやっていて、かなり衝撃的でした。脳みそに詰め込むことではなく体感することだと感じたので、当時はまだ15歳でしたから、どうにか親を説得して語学留学という形で渡米することになりました。だからグラフィティ技術を習得するといったような目的があって渡米したわけではなく、単純にヒップホップカルチャーへのあこがれから、本物の世界感が体感したかっただけなんです。ちなみに期間は3年半です」
──TOMI-Eさんご自身は、そうした中でどのようなアクションを起こされたのですか?
「気がつけば『日本のギャングスターがやってきた』みたいになっちゃったんです(笑)。きっと今まで自分のような日本人がまわりにいなかったし、こちらが相手のことをよくわからないように、逆に向こうも自分をどう扱っていいものかがわからず、半ばびっくりしてしていたぐらいですから…。とにかく何処に行こうが何をやろうが、自分からアクションをおこす時に一番必要なのは、クソ度胸だと思いますよ。技術や体裁はその次でしょう」
──グラフィティは独学だということですが。
「ストリートの遊びの一環として独学で覚えていきました。たまたまライブペインティグを開催しているパーティ会場に足を運ぶ機会があって、その時のゲストライターが描いている姿を観察してそれを真似ました。当時の日本ではグラフィティのライブペインティングなどあまり見かけなかったかもしれないですが、アメリカでは方々のイベントで開催されているんです。だから技術的にわからない部分があれば、そうした会場で直接ライターに聞いたりし、そんな風にライター達と付き合っているうちにだんだんグラフィティ仲間も増えましたね」
──その後、本場仕込みのグラフィティを日本に持ち帰ったわけですが、当時(15年前)の日本は、グラフィティライターにとってどのような状況だったのですか。
「まあ今でもプロの定義なんていうものは明確には存在しませんが、当時東京近郊でグラフィティライターという肩書きを前面に出して活動していたのは、自分を含めて確か三人ほどでしたね。厳密にはどれほどのライターがいたかのかはまったくわかりません。ただそれほど、少なかったということです。もちろん誰もが『これで食っていこう』なんて考えてもいなかったと思います。みんななにか別の仕事をしながらグラフィティを描き続けているという状況でしたね」
──ギャラが発生した日本での初仕事を覚えていますか。
「自ら雑誌に売り込んで、某人気ストリート系の雑誌から取材依頼を受け、その掲載後の宣伝効果もあり、掲載後すぐに最初のオファーが仙台のクラブからありました。確か交通費・宿泊費と別にギャラが8万円支払われました。それまで自分の作品が買ってもらえるなんて考えていなかったから嬉しかったです。ただそれをきっかけに自分の作品に対してお金を支払ってくれる方が出てきた以上、ストリートに描き続ける行為は、その方に対してとても失礼な事だと判断し、すぐにストリートで描くことをやめてしまいました。」
──仕事の質がガラッと変わったと思える、転機となるような出来事を覚えていますか。
「日本に帰って3年ぐらいたった1997年に手がけたCASIO『G-SHOCK』とのコラボ商品ですね。たまたま描きためていた作品が先方の目に留まって、当時としては画期的なコラボが実現されたんです。製品が出来上がったときはかなり嬉しかったですね!『本当に自分でよかったの?』なんて思ってしまったり…。もちろん製品の影響力のおかげもあり、それからは大きな仕事が入ってくるようになりました。その次にオファーがかかったのが、JRA(日本中央競馬会)のG1レースのポスターの仕事です。なにせJRAのG1ポスターだから全国各地にばらまかれますからね!だからグラフィティ仲間達と盛り上がりました(笑)。その後は変わったところで漫画の連載なんかもやったりしました。そんなこんなで、いつしかグラフィティが生業になり、電気工事の仕事はやらなくなっていました」
◆物体があれば何にでも描ける!それがグラフィティアートの魅力。
──いままでTOMI-Eさんがオファーを受けた仕事の中で「いくらグラフィティだからってこんなのには描けないよ」というものはありましたか。
「それがまったくないんですよ。何かの物体がありさえすれば、建物だろうが、バッグだろうが、Tシャツだろうが何にでも描けてしまう。パンツ(下着)のコラボもあります。ある意味それがグラフィティアートの魅力なんだと思います。ただしいて上げるとすれば小さいものが苦手です…。逆に大きければ大きいほどやる気が湧いてきますね」
──では今もっとも描いてみたいものは?
「出来る限り大きいものにチャレンジしていきたいんですけど、特にジャンボジェット機は昔からの夢なんですよ!自分が描いた作品が大空を駆け抜けるって、これほど魅力的なことはないですよ。それが海外便であれば最高ですよね」
──それでは最後に今後の目標をお聞かせください。
「できれば、遠い昔に日本の絵師が海外の画家達をうならせたように、自分も早く単なるアーティストではなく、本物の職人と呼ばれるような人物になりたいと思っています。今年5月には、いままで描いてきた(1994年~2010年)作品の画集を発表いたします。それを機に自分の名前の表記である『TOMI-E』を、これからは『富』と表記しようと考えています。やはり自分は日本人だから、たとえローマ字表記のほうが作品が海外に出た時にもわかりやすからといって、そうしたことに流される必要はないのだと割り切ることにしました。外国人の方にもちゃんと『富』という漢字を読んでもらい、この作品は日本人が描いた作品なんだと、視覚的に理解してもらおうと考えています」
(撮影・取材・文/松田秀人 協力:Kinu~美のカリスマ)
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