多くの人が楽しめる、
でも誰もがつくれないものを僕はつくりたい。
世界を舞台に活躍するファッションデザイナー瀬田一郎。フランスのジャン・ポール・ゴルチエ社にて経験を積んだ後、Y’s、YohjiYamamotoを経て、2001年、長繊維のトップメーカーである、独ENKA社主催による世界的なファッションタレントスカウトプロジェクト『ENKAMANIA』にて、世界の若手デザイナー500名の頂点に立ち、その中で最優秀デザイナーに選出され、世界的に高い評価を受ける。
それをきっかけに2005~2006年秋冬コレクションまでミラノコレクションに参加。現在は日本国内において様々なファッションブランドと契約【VIA BUS STOP(setaichiro)、?螢襯Д襯屮襦爾箸離灰薀椒譟璽轡腑鵐薀ぅ鵝?LE CIEL BLEU Seta ichiro』、TOCCA社ライセンスブランドディレクターに就任】。瀬田一郎ならではの世界観を提供しつづけている。そんな瀬田一郎氏に、ファッションデザインとの出会いから世界への足がかりとなった『ENKAMANIA』でのエピソード、また今後のヴィジョン、そして自らを『服職人』と呼ぶ理由など、自己分析を含め徹底的に語ってもらった。
──東京モード学園を卒業後、フランスに行かれたという瀬田さんですが、その経緯を教えてください。
「僕はジャン・ポール・ゴルチエが好きだったから、ただそれだけの理由で、卒業してすぐジャン・ポール・ゴルチエが契約をしている日本の会社で働きました。ところがある時、会社の集まりに出席するためジャン・ポール・ゴルチエがパリから来日したんですよ。当時の僕は業界に足を踏み入れたばかりの新人だったからきっと相手にもしてくれないだろうと思いつつも『こんな機会はめったに訪れない』と自分に言い聞かせ、僕はジャン・ポール・ゴルチエに思い切って『パリのあなたのアトリエで働かせてください』と声をかけてしまいました。きっと笑われて終わりかな?なんてちょっと弱気に彼の表情をうかがっていると、ニコッと微笑んで 『くればいいさ』 と言ってくれたんです。もちろん『えっ行っちゃっていいの?』とは思いましたけど、とにかくチャンスかもしれないので、その言葉を信じ、早速会社をやめて荷物をまとめ、2ヶ月後ぐらにはもうパリの地に立っていました」
──フランスのアトリエはそんなに簡単に受け入れてくれたのですか。
「それがとんでもなかったんですよ。フランスのアトリエのスタッフに、何故自分がここにいるのかを説明すると、みんな驚いた表情で僕に目をやり、『それであなたは本当にきてしまったんだね。確かに彼は時に社交辞令でそうのようなことを言うかもしれないけれど、本当に来たのはあなたが初めてだよ』とあきれかえってしまったんです。でもその熱意を受け入れてくれたのか?そのまま返されることなく、とりあえず数ヶ月間は研修ということで、他の二人の研修生と一緒に仕事をさせてもらうことになったのです。
◆『Y’s』を飛び出して独立した時は完全に盲目状態でしたよ。
──パリから帰国された後は?
「帰ってすぐに山本耀司(やまもとようじ)氏のブランド『Y’s』に入社しました。その『Y’s』に6年、同氏のブランド『Yohji Yamamoto』に5年いました。「一言でいえば『修行』ですね。特に前半の7年間は完全に修行です。自分が会社に貢献していると感じることができるようになったのは8年目からです。そして、1998年に独立して『株式会社シディア』という会社を設立したのですが、飛び出して独立した時は完全に盲目状態でしたよ。『いったいなにがどうなっているの?』って。今でこそ全体を見渡せるようになったけれど、何せ当時は『Y’s』や『Yohji Yamamoto』の中での自分の立ち位置しか考えたことがなかったし、なによりデザインだけに集中できましたから……。
◆『ENKAMANIA』にて、世界500名の若手デザイナーの中から『最優秀デザイナー』に。
──逆に万全の体制で自信をもって送り出した初の作品は?
「その三年後の2001年に、知り合いの広報担当の方の紹介で参加した『ENKAMANIA』時の作品ですね!世界各国から500名を超す若手デザイナーが参加したんですよ。そんな中、僕はファイナリストの5名に選ばれ、さらに『最優秀デザイナー』にも選出されたんです。『ENKAMANIA』に向けて時間をとってアイデアを練り、ディテールにこだわる余裕をもたせ、納得のいくものをつくりあげました。実は『これで駄目だったらもうデザイナーなんかやめてしまおう』ってぐらい気合いが入っていたんです。それだけに結果に繋がったことが嬉しかったし、正直言ってほっとしました。そういえば『最優秀デザイナーはこの方です!』ってやってたのが、女優のミラ・ジョヴォヴィッチでした」
──『ENKAMANIA』を足がかりに、瀬田さんの世界的な活躍がはじまるのですが、当時の主な活動内容を教えてください。
「やはり『ENKAMANIA』がきっかけとなり、2002年9月に開催された『2003年ミラノレディースコレクション』から瀬田一郎として世界に向けてのデビューができ、2005年の春夏まで『ミラノコレクション』に参加していました。この間、一時期ですが、イタリアのジボ・コー社のブランド『GIBO』のクリエイティブディレクターを兼任していたりもしました。その後、2006年からは再び活動拠点を日本に移し現在に至っています。
◆糸一本から生地まで、全てオリジナルにこだわっています。
──ここからは瀬田さんの服づくりに関するこだわりなどをお聞きしたいのですが、コンセプトの異なるいくつかのブランドを手がけていく中、ブランドに限らずこれだけは変わらないというものがあれば教えてください。
「素材、パターン、フィット感、着心地、肌触り…。まあこのほかにも要素はいろいろとありますが、確かにブランドコンセプトによって求められるものは異なります。時に優しいものであったり、または力強いものであったり…。しかしなにがどうなろうが『人間ありき』という部分だけは揺るがないじゃないですか!そして服というのは『人が身につけた時にいちばん美しくなければならない』というのは永遠のテーマなわけです。壁にかけてある服がいくら芸術的で美しくてもそれはまったく意味のないことなんです。そんな中、僕は常にデザイナーというよりは『職人』的目線で見ているし、職人としてできる限り『服としての』完成度を上げてやろうと心がけています」
──最後になりますが、今後、瀬田一郎はどういう服をつくっていきますか? 「多くの人が楽しめるけれど、でも決して多くの人がつくることができないものをつくります。もう既にその段階に入っているといえます。そしてまた世界に目を向けていかなければならいとも感じています」
◆関連ブランド 『setaichiro』紹介
コンセプト「やさしい服作り」をテーマに、毎シーズン、糸や素材からコレクションを制作。一点一点全てに温もりのこもった作品づくりを行っている。独特な風合いを持つ素材、情熱のこもったハンドクラフト、美しく流れようなシルエット、様々な要素を融合し、エレガントだがリラックス感のある柔らかな世界を創り上げている。
http://www.sidea.co.jp/
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